杜~フォレスト~

ぼくが考え、書いてきたこと

本を読めなくなった人のための読書論

【2244】本を読めなくなった人のための読書論

 

 

【19/11/01】若松さんのご本は、何冊読んだだろう。その都度に蒙を啓かせられる思いがする。私もうつ病(当時)になった一時期、本を手にすることができなくなっていた。それが今は、何とか読めるようになったのだが、私が再び読めるようになった「きっかけ」が見いだせれば、同じ悩みを持つ人たちに役立てはしないかと思っている。さて、本著であるが、私は「本を読めなくなった人」とは、「言葉」に迷っているか、見失っている人なのではないかと感じた次第である。そこから回復するには、己心の内にあるものを見つめ返すことが必須であると読んだ。

【20/01/29】近隣のキリスト教会で、著者ご本人に会う機会があるかもしれないと思って再読。「速く」「多く」、そして「正しく」読む必要はなく、「たしかに」読むことが大切であると説く。読めない時には、書いてみるとか、調べる(=ととのえる)ことも重要。本を読めなくなっている知人たちにも勧めてみたいと思う。

【20/11/10】ここしばらく、本が開けなくなっていたので再読。三巡目とは思っていなかった。以前傍線を引いた箇所と、ほぼ同じところに、色違いの線を引いていた。本当に自分が欲し、自分を変える一書、あるいは「一言」と出会うためには「待つ」姿勢が大事であるとされていた。偶然と思われる出会いが、実は運命づけられているということもあるとは、その通りだと感じた。

【21/07/05】オンライン読書会の機会を得ての4回目。もはや、私の読書論なのか、若松さんの読書論なのかがわからなくなってきている。本を読めないというのは、理由が合ってのことで、そこに喜びを見いだせなくなっているからであり、ムリをして読む必要はないとされている。おそらくだが、読めない理由の一つは、「身」が固くなっているからなのではないか。また、読めない理由は「外部」ではなくて、自分の内にあるとも。探さなければならないのは、自分のための「コトバ」であって、それは自身の内側にこそあるのだとされている。感銘深い。

【22/10/20】まだまだ学ぶことは尽きないことが、かえって喜ばしいこととして思えてくる。オンライン企画「#しおりを挟む」エピソード1のために再読。

 

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