こんにちは。
先のエントリーにおいて、「リクエスト企画」として紹介していた宗教社会学等についてのお話しは、以後、「オトナのチエノワ」というカテゴリー化を図ることといたしました。Discordサーバに参加してくださっている各位の「得意分野」について、思い思いに語っていただこうと思います。その第1回目として、言い出しっぺのぼくが責任をとることにいたします(笑)。
そもそものきっかけは、サーバに「宗教のことについて知りたいです」という投稿がされたことでした。これに対して、ぼくは「キリスト教と資本主義や近代科学との関係についてなら、少しお話しできますがいかがでしょうか」と返答したのです。ここから「企画」が動き始めました。それを「オトナのチエノワ」という「括り」にしようと思ったのは、後からのことです。
ま、その辺りのことはこれくらいにして・・・と。
6月20日(火)にお話ししようと思っていることについて書いておきます。
1)旧来の歴史観
2)マックス・ウェーバーの宗教社会学
3)村上陽一郎の科学史論
ここら辺をお話ししたいと思っています。
追記)文末に新項目として、この通話の回の音声ファイルへのリンクを設置いたしました。
1)旧来の歴史観
実のところ、今回準備していること自体、30年以上前に「卒論」としてまとめたものをベースにしているので、学界の動向的に、既に古びてしまっている可能性が非常に高いです。ですので、お聞きくださった方々が、それぞれに「アップデート」してくださることを期待しています。
ここでの「旧来」というのは、卒論執筆以前、つまりは1980年代「以前」ということになることを、まずお断りしておきます。
その歴史観(=世界史観)とは、
古代=輝かしい古典ギリシアとローマ
↓
中世=キリスト教の蒙昧が支配していた暗黒時代
↓
近代=ルネサンス以降、「人間性」が花開いた時代
とするものです。これ自体、いささか図式的にすぎると思いますが、まあ、そんなもんだとお考えください。
しかし、実際そうだったのか。中世は「無意味」なものなのか。近代はそれほど「よい」ものなのかというのが、比較的「新しい」歴史の見方であると言えましょう。
また、ぼくは仏教系の信仰を有しており、そこでは文明における宗教の意義、特に文明の「動因」としての宗教というような論じ方がされていて、それに親しんできたものですから、2)と3)で述べる考え方に親しみを感じたということもあることを、申し添えておきます。
2)マックス・ウェーバーの宗教社会学
マックス・ウェーバーは、社会学史上の最大の巨頭の一人です。広範な領域で、多彩な業績を残しました。「宗教社会学」と言われるのもその一つで、論文『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、主著として数えられています。
ぼくが接したのは、いきなりこの論文だったのではなくて、岩波新書の『社会科学における人間』『社会科学の方法』(ともに大塚久雄著)でした。ここでは、大幅に端折って紹介することにいたしますので、ご興味をお持ちくださいましたら、これらに触れてみることをおススメいたします。
まず、旧来の「経済史」観では、中世とは人間の自然かつ自由な欲望(や経済活動)が、キリスト教によって抑圧されていたとしていました。この「抑圧」から、人間が「自由」になる過程において、近代的な資本主義が発展していったとされていたようです。
しかし、ウェーバーは資本主義の「発生」は、「近代」の「ヨーロッパ」において、世界史上ただ一回限り起こったことであるとしていました。その動因・誘因が、キリスト教、特にカルヴァン派の勤労倫理であることを推論したのです。つまり、隣人愛の実践としての勤労は、すなわち神の栄光を称える行為であり、その勤労の結果として得られる蓄財は、自らが救済にあずかったことの証しとされたと推理したのです。
しかし、一旦社会的な「メカニズム」として確立してしまうと、資本主義は、その動因としての信仰心を必要とはしなくなります。むしろ、外的な要因として、人々を動かすようになっていくとして、さらなる人間疎外の進行までも予見したのでした。
3)村上陽一郎の科学史論
もう一項目おつき合いください。ここからは、「近代科学とキリスト教信仰」という話題を取り上げます。主として、村上陽一郎著『新しい科学論』(講談社ブルーバックス)に書かれていた「であろう」ことについて、申し述べたいと思います。「であろう」というのは、他の村上さんのご著作との切り分けができていないからです。お許しください。
ここでも、「旧来の」科学史観を想定することとします。それはつまり、中世とは哲学が神学の下僕として存在するなど、後代になって「正しい」とされる世界観が、キリスト教的蒙昧に覆い隠されていた時代であったとするものです。それが、宗教改革やルネサンスを経ることで、徐々に「正しい」世界観が露わになってきたと考えます。ここでは、歴史は単線的に「進歩」しています(あるいは、することになっています)。
しかしながら、近代科学の黎明期(これを「科学革命の時代」と言うこともあります)に現れた「英雄」たち、例えば、コペルニクスやガリレオ、ケプラー、ニュートンらを探求に向かわせたものとは、キリスト教への信仰心であったと考えられるのです。
思い切って話を単純化すると、神の栄光を称えることと、世界には「美しい」法則性が横たわっていると証明することは、極めて親和的な、近しい感覚であったということです。
ここでは、プトレマイオスの天動説とコペルニクスの地動説とを比較してみます。実は、天動説も「理論的には」整合性が取れていました。ただし、それは円運動の非常に複雑な組み合わせとして、天体の運行を予測していたのです。それが地動説へと劇的な転換を遂げたことの「重要な」理由として、地動説の方が単純な(=美しい)数式で天体の運行が記述できるということがありました。つまり、「神」は世界を、複雑なものとしてではなく、シンプルで美しい秩序の下に構成したという「宗教的信念」があったということです。
4)まとめとして
駆け足で、近代を特徴づける「資本主義」と「近代科学」の発生のあらましを見てきました。このような「歴史の補助線」を引くことで見えてくるのは、相反すると思われている「宗教」と「文明」の間に、無視できない関係が潜んでいるということでした。
それに、もしも文明のけん引力として宗教が機能し得るのであれば、宗教がアップデートされれば、文明もアップデートされ得るということも「言っていい」のではないかと思うのです。
現今の文明の「危機」への対処には、人間の知恵を「総動員」することが必要でしょう。その時、宗教がもたらす「叡智」もまた、必要とされてくることがあるのだろうと申し上げて、今回の「レジュメ」とさせていただきます。最後までお読みくださいまして、感謝申し上げます。ありがとうございました。それではまた!
5)音声ファイルをお聞きいただけます(23/06/23追記)
こちら から再生が可能です。再配布は固く禁じます。