杜 ~フォレスト~

ぼくが考え、書いてきたこと

100分de名著テキスト『福音書』を読む ③(全4回)

 

※ 書影は再放送時のテキストのものです。

全四回を予定している、「100分de名著テキスト『福音書』を読む」の三回めをお届けいたします。今回は、第三回放送分(23/04/17)「祈りという営み、ゆるしという営み」からの、以下の一文について書き起こしていこうと考えています。

他の人との悲しみ、苦しみを映しとる、このことこそ、イエスに宿っていたもっとも特出したはたらきでした。つまり、ここでいう「目覚めている」とは、自分以外の悲しみや苦しみに向かって開かれているということだともいえそうです(放送テキストp.67)。

このキリスト教についての言及に対応する仏教上のキーワードは、「同苦」です。同苦とは、言い換えると「慈悲」ということになるそうです。

このテキストからの引用の直前の部分を簡単にまとめておきます。イエスは三人の弟子を伴って訪れた先で、やがて捕らわれることと、それと直結する死を予期します。主に「アッバ」と訴えかけ、三人の弟子たちには、祈っている間は起きているように告げています。しかし、この弟子たちは三人とも眠ってしまいました。

イエスが要請したのは、おそらくは他者(ここでは「すべての他者」)の苦しみについて、眠ってしまってはならず、自らを開いているよう、つまり、目を覚ましているようにということであると、若松さんは述べていると感じました。

これは、まさしくそのまま、仏教の「同苦」です。同苦とは、単に他者に苦しみや嘆き、悲しみに共感を示すということだけではなく、まさに文字通りに「ともに」「苦しむ」ということであって、そのことは「慈悲」のはたらきであり、顕われであるとされています。

以下は、私の理解であり例えなのですが、悲しみや苦しみの「穴」に落ちた人を、穴の外や上から励ましたり、縄梯子を投げ入れたりするのではなくて、ひとまずは共に穴の中に入って見上げ、共にそこから出ようとすることなのではないかと思っています。くどいようですが、「例え」ですのでご注意ください。

さて、仏教者からのキリスト教批判の一つに、「愛」の限界性を挙げることがあると聞きました。言葉遊びとも思うのですが、書いておきます。つまり、「愛」には対立概念あるいは反対概念としての、憎悪・憎しみ、無関心というものがあるが、「慈悲」はそうした対立概念がないと言うのです。かなり眉唾ものなのですが、それでも参考にしてしまいましょう(笑)

先のエピソードで、三人の弟子たちにイエスが要請したことというのは、悲しみや苦しみにある人を前に、眠っていては、つまり「無関心」であってはいけないということだろうと思うのです。つまり、慈悲の顕われとして「同苦」せよ、と要請しているのではないか。ここにおいて、キリスト教と仏教とは、またも響き合っているのです。

今回もお読みくださいまして、ありがとうございました。