杜 ~フォレスト~

ぼくが考え、書いてきたこと

2405:信仰と理性、宗教と哲学

とある批評家の方がおっしゃっていましたが、文学と宗教、哲学の三者とは、かつて不可分のものとして存在していたのだそうです。かろうじて信仰を保持している私としては、この発言は歓迎できるものでした。先だって私は、「哲学とは、言葉の丁寧な運用」であり、丁寧に生きようとすることでもあると書きました。今回の記事では、この三者のうちの、特に宗教と哲学についての「思いつき」「思い込み」を書き連ねていこうと思っています。おつき合いくださいますと幸いです。

ともすれば、今日「宗教」とか「信仰」には、怖いとか、不合理といったイメージがついてまわっていると思います。もうすでに何十年も経ってしまっていますが、高校での世界史(=西洋史)では、中世までの宗教(=キリスト教)の蒙昧・不合理を、哲学/理性が克服していく過程として教わったような記憶があります。したがって、ここでは宗教と哲学とは、「宗教哲学」というような場合を除いて、おおむね対立するものとして描かれていると考えられます。

しかしながら、学問の歴史を検討しようとすれば、科学は哲学から、哲学は宗教(神学)から独立ないし「派生」していっているとも捉えられます。ある意味では、哲学は科学の、そして、宗教は哲学の「母胎」であったとさえ言えるものと考えます。であるならば、宗教と哲学とを、二律背反的にのみ捉えようとするのではなくて、「別の見方」だってできるのではないだろうかというのが、今回の稿の主旨となります。

哲学史を振り返った時、特に西洋近代哲学の黎明期、例えばデカルトなどは、その思索の究極の目的は、神の存在証明であったと読んだ覚えがあります。あるいは、世界を成り立たせている秩序を解明しようとし、神の御業を讃えることが、のちに「科学」と言われるようになる営みの目的でもありました。

あわてて付け加えますが、ここで述べたいのは、宗教の懐に帰れということではありません。哲学や科学と、宗教とは相対立し、排撃しあうものではなく、節度ある敬意を払い合える関係にあるのではないかということです。人間が、世界を把握し、理解するためのいくつかある方法の一つであるとの感覚を持つのがいいのではないかということです。

もちろん、宗教にせよ、哲学や科学にせよ、そのどれかであってもその全体を担うことは、ほとんど不可能です。しかし、その不可能性に対しての謙虚な自覚があってこそ、宗教から哲学、あるいは哲学から宗教への架橋がわたせるのであろうし、異なった宗教間での対話の試みもあり得るのだと考えるものです。

物事について考える際、一つには「腑分け」をして考えることと同時に、異なると見えていた物事同士の関連や共通性を見出そうとすることは大切で、それこそが、「考える」という営みなのだと思っています。相反すると見えている、宗教と哲学(あるいは科学)とを、択一問題として考えるのではなく、相補い合うものとして考えたいとする所以です。

今回はここまでとしたいと思います。お読みくださいまして、ありがとうございました。それではまた!