杜~フォレスト~

ぼくが考え、書いてきたこと

【中休み】何で『社会科学における人間』にこだわり続けているのか?

こんにちは。

このブログを2月26日に新設したところ、しばらく懸案として置いておいた大塚久雄さんの『社会科学における人間』についての考察が、自分の中で流れ始めました。また、昨夜遅くのネット通話で、この本を最初に読んだ1982年以来、40年の長きにわたって「こだわり」続けたことの意味が、おぼろげながらわかってきました。今回は、そのことを書いておこうと思います。

 

 

既述した(つもりになっている)通り、この著作の柱は3つあります。つまり、

ロビンソン・クルーソーを例証とした、社会科学の前提となる「人間類型」の考察、
マルクスの経済学の方法を通して見た、理論と「人間」との関係、
ウェーバー社会学を通して見る、歴史の動因としての「人間」「理念」の問題。

おおよそ、これらを支柱としているものと思われます。現在は、全体の四割くらいの位置にあると考えています。

ぼくがこの本に惹かれたのは、特にマックス・ウェーバーの宗教社会学の手法についてでした。もう40年経っているので反駁され尽くしているかもしれないのですが、今もぼくには魅力的に映っています。そこで書かれていることとは、要は近代資本主義の誘因となったのは、キリスト教の信仰であったということでした。

その後で知ったのが、村上陽一郎さんの科学史論でした。先駆者として、ロバート・マートンによる科学社会学が位置づけられるとぼくは考えているのですが、似たような理路で、ここでもキリスト教信仰が、今度は近代西欧科学を駆動したということを知りました(これについては、『新しい科学論』に言及する際に述べる予定です)。つまり、「近代ヨーロッパ」を特徴づける「資本主義経済」と「近代科学」とは、両方ともキリスト教と深く関わっている。そのことが、若く未熟なぼくを魅了したのでした。

文明と宗教

実のところ、ぼくは宗教系の学校に通っていました。昨今の「はやり」で言うところの「宗教2世・3世」と言ってもいいと思います。幼い頃から、「文明の動因は宗教である」という文明観に親しんでいました。しかし、その宗教がキリスト教であったことを知ったのは、長じてからのこととなります。

とは言え、実際の学問的な業績として、文明の基底に宗教があるということを述べている人がいることは、ウェーバーに至るまでは知らなかったのです。なるほど、これは確かに宗教は文明を動かすものだと合点がいきました。少なくとも、それが「仮説」であったとしても、そう考えることで、「新しい文明の創造」というところにまで視界が広がったのだと思います。

現代文明の危機

1970年代は、冷戦や公害、あるいは「人間疎外」といった難問が山積していて、終末論さえ「ブーム」になっていました。文明の危機が、言わば「日常化」していたのです。このままでは、21世紀さえ覚束ない。そんな空気さえ漂っていたと思います。しかし、危機の打開策は見出し得なかったと記憶しています。

危機を乗り越えるために

しかし、長じてから、現代文明の基底には、キリスト教信仰があるらしいし、文明と宗教は、深い関係があるようだということを、少なくとも、そういう「考え方」があることを知ったわけです。であるのなら、そのキリスト教を乗り越え得るような何事かを見出すことができれば、この「現代文明の危機」にも対処ができるのではないか。たぶん、そういうようなことを直観していたのではないかと思う(むしろ、「思いたい」)のです

事はそれほど簡単なことではないと思っています。しかし、努力の方向性が見えたとは言えまいか。文明のOSまたはBIOSとしての信仰心というテーマは、成立するのではなかろうか。そして、その問題設定は、「危機の克服」ということにもつながるのではないか。そういう風に、自分の問題意識の継続と推移を整理してみたところです。

          *       *       *

今回の記事は以上となります。最後までお読みくださり、ありがとうございました。それではまた!

 

 ↓↓↓ 励みになるので、よろしければクリックなさってください!