こんにちは。
今回から大塚久雄さんの『社会科学における人間』(岩波新書)の本論についてご紹介してまいります。すでに書いているつもりですが、ぼくはこの一連のブログ記事でしたいと思っているのは、「名刺代わりの10冊」についてのご紹介をしたいというのではありません。それらを通して、自分が何を汲み取ってきたのかについて語りたいと考えています。つまり、何が自分の燃料となってきたか、あるいはしてきたのかを語りたいということです。それは肝に銘じておきたいと思っています。ではまず、この本で語られていることを見るために、「目次」を掲げておきたいと思います。なお、便を考えて「1」「2」等の連番の表記を変更してあります。
『社会科学における人間』目次
0 序論
1 現代社会科学と人間論
2 人間類型とは何か
1 「ロビンソン物語」に見られる人間類型
3,4 「ロビンソン物語」の社会背景①②
5,6 ロビンソンの行動様式①②
7 ロビンソン的人間類型のもつ歴史的意義
2 マルクスの経済学における人間
8 『資本論』に現れる人間
9,10 自然発生的分業①②
11 「ロビンソン物語」に対するマルクスの評価
12 マルクスに見られる人間類型論の萌芽
3 ウェーバーの社会学における人間
13 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
14,15 資本主義の精神とは何か①②
16,17 プロテスタンティズムの倫理の歴史的役割①②
18 資本主義の精神の消失とその意味
19,20 「世界宗教の経済倫理」における視野の拡大①②
21 儒教とピュウリタニズム
22,23 インド的宗教意識とユダヤ的宗教意識①②
4 展望
24,25 社会科学における人間論の課題①②
5 あとがき
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以上、NHKの市民大学講座(1976年)における全25講がまとめられているのが本書です。この一連のブログでは、①ロビンソン・クルーソーの物語について、②マルクスの経済学について、③ウェーバーの社会学について、かいつまんで語っていく予定でいます。今回は①について書いていく予定です。
なぜ「人間類型」論なのか
「人間類型」というのは、あまりなじみのない言葉だと思います。ここでは、ある時代・ある社会に特徴的に見られる人間の行動様式やパターンという程度の意味合いで考えればよいと思います。注目すべきは、人間は、いついかなる時であっても、同じような行動を取るわけではないということが示唆されている点であると思います。
ここに至るには、いくつか筋道があったと考えられますが、本書にも取り上げられている「南北問題」(あるいは途上国の「開発」の問題)や、ベトナム戦争などに起因していると思われます。
学問や科学の中心が、二度に及んだ世界大戦の結果、ヨーロッパからアメリカに移りました。特に第二次大戦後には顕著になり、植民地であった諸地域の独立(と独立戦争や代理戦争)と、その後の経済支援に、社会諸科学の知見が動員されていきました。しかしながら、それらは必ずしも奏功したわけではありませんでした。そこで大塚は、前提とされていた社会を成す人間の行動様式が違っていることに注目したというのが、ぼくの理解です。まずそこで注目されたのが、大塚の専門分野である、英国での資本主義の黎明期における諸個人の行動様式であり、それを象徴するのが、ロビンソン・クルーソーであると見ていたと考えても、あながち読み違いではないと思っています。
「ロビンソン物語」と近代資本主義
近代的な資本主義は、なぜヨーロッパで「開花」したか。これについては、諸説がありますし、そもそもが「資本主義とは何か」という、大きな問題を含み込んでいます。ここでは簡単に、「再生産のために広範囲に組織化された生活様式」と仮設しておきます。資本主義を、単なる利潤追求であるとしなかったのは、いわゆる「金儲け」は歴史的にも地域的にも、広く観察できるものだからです。しかし、注意深く見ようとすると、近代ヨーロッパ「以降」に見られる行動様式には、際立った特徴が見られるとのことでした。その特徴を描いていたのが「ロビンソン・クルーソー」の物語だったということです。本書では、特にウェーバーの社会学が、ロビンソン的人間類型の史的発生について詳述されていることがうかがえます。
社会科学と「人間類型」~この章までで学び得たこと
何しろもう何年も再読していないので、どこからどこまでをこの本に負っているのかがわからなくなっているのですが、先述している通り、この本はぼくが読書や選書をする態度に、決定的な刻印をしました。その一つが、ある事象や見解について、できるだけ史的・社会的な「背景」や「前提」を探るべきだというものです。
社会科学は、物理学や天文学のような学問に比べて「後発」の学問です。「科学的」であること、その厳密さという点では、いささかの遅れを取っています。後追い故に、科学的であろうとすることへの情熱は、強いものがあったと言えると思います。しかしながら、歴史的、あるいは社会的な事象とは、「一回限り」のものであって、再現性において劣るものと言わざるを得ません。しかし、だからと言って、学問的に「劣る」とは言えないと思います。
社会科学が、今後も人間社会に資するものとしてあり続けるためには、その来歴や至らぬ点などを検討する必要があります。そのような点への目配りが必要だということを、この書の、この章までで学んだのではないかと思っています。
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今回の記事はここまでといたします。『社会科学における人間』については、次回以降「マルクスの経済学における人間」について言及できるようでありたいと思っています。最後までお読みくださいまして、ありがとうございました。コメント機能や、Twitter、マシュマロ(サイドバーに設置しています)等をご利用の上で、ご意見・ご感想等を賜れますと幸甚です。どうぞご検討くださいませ。それではまた!